イタリア見聞録

モーツァルト、ワーグナー、ゲーテ、スタンダール、アンデルセン、デューラーなど、多くの偉大な芸術家たちがイタリアに魅せられ、傑作作品を生み出しました。

イタリア在住のジャーナリスト内田洋子さんが企画・翻訳した『デカメロン2020』

ヨーロッパで最初に新型コロナウイルスが蔓延し、非常事態宣言の発動されたイタリア。その「コロナ禍」で各地に住む17歳から29歳の若者たち24人が綴った日々の記録、耳を澄ませ、見て、感じて、触れた日々を書き留め、コロナ禍のイタリアで人々の気持ちや生活はどう変わっていったのか世の中の光景と人の声をまとめ未来へ伝えるために、クラウドファンディングで約270人が支援し出版されました。
中世のイタリアで猛威を奮ったペスト禍に書かれたジョヴァンニ・ボッカッチョの古典『デカメロン』の現代版として書籍化された『デカメロン2020』について、内田洋子さんは「時代を切り取った貴重な資料。後々、演劇などの創作に昇華させてもらえれば」と語っています。私は、この本を手にしたことで、先の見えない不安な日々を共有する若々しい仲間から、様々な生活のアイディアと力を得ています。
                                       (2021年 01月 22日のブログより)

新型コロナウイルス感染症対策に関してイタリアでは

新型コロナウイルス感染症対策に関して、世界中で色々な対策が行われていますが、
ロンバルディア州の緊急対策で休校になったヴォルタ高校のドメニコ・スクイラーチェ校長は“マンゾーニの名著「許嫁(I Promessi Sposi)」の中から17世紀のミラノを襲ったペスト感染の状況を語る一部を引用して生徒たちへのメッセージをネット掲示板に掲載しました。
<ヴォルタ高校の皆さんへ>
“ドイツのアラマン族がミラノに持ち込むのではないかと健康省が恐れていたペストが、実際に侵入してイタリア中に蔓延し、人々を死に至らしめた…”
ここに引用したのは、1630年にミラノを襲ったペストの流行について書かれた「許嫁」の第31章の冒頭です。ずば抜けた先見性と明解な文章。ここ数日の混乱の中に置かれた君たちに、しっかりと読むことを勧めます。ここには全てが書かれています。
“外国人を危険と見なし、当局間は激しい衝突、感染者を異常なまでに捜索し、専門家を軽視し、感染させた疑いのある者を捕え、デマに翻弄され、愚かな治療をし、必需品を買い漁り、医療危機…….”
これは、マンゾーニの小説というより、まるで今日の新聞を読んでいるかのようです。
親愛なる生徒のみなさん、当然のことながら学校生活の中で学ぶリズムや規則は、市民生活の秩序につながります。休校に至ったという事は、当局がそれ相応の決断をしたことであって、専門家でもない私は、その判断の正当性を評価することも、また評価できると過信もしません。当局の判断を信頼、尊重し、その指示を注意深く観察して、君たちには次のことを伝えたいと思います。
冷静さを保ち、集団パニックに巻き込まれず、基本的な予防措置をして日常生活を続けてください。この機会を利用して散歩をしたり、良い本を読んでください。体調に問題がなければ家に閉じこもる必要はありません。スーパーや薬局に殺到しマスクを求める理由もありません。マスクはそれを必要とする病気の人のために残しておいてください。
病気感染の勢いが速いのは、発展した文明の結果です。それを止める壁がないことは、数世紀前も同様で、ただその速度が遅かっただけです。このような危機における最大のリスクについては、マンゾーニ、そしてボッカッチョが、私たちに教えてくれています。
それは、人々の社会生活が毒され、市民生活が荒廃すること。目に見えない敵に脅かされると本能的に至る所に敵がいるかのように感じ、私たちと同じ人々までもを脅威とみなしてしまう危険があります。
14世紀と17世紀のペスト流行時と比べると、私たちには確実に進歩した医学があります。私たちが築いてきた社会と人間性という最も貴重な資産を守るために理性的な判断をしましょう。もしこれができなければ、”ペスト”が勝利してしまうかもしれません。
では、学校で君たちを待っています。
Domenico Squillace
                                     (2020年 03月 04日 のブログより)

Bicerinのお話

2001年に、ピエモンテ州の“bevanda tradizionale piemontese(ピエモンテ州の伝統的飲み物)”として認定されたBicerin(ビチェリン)とは?

イタリア、トリノの伝統的な温かい飲み物で、ホット・チョコレート、エスプレッソ、そして牛乳から作られ、丸いグラスに層状にして提供されます。1763年にオープンしたCaffe Al Bicerinで提供されたことから、この名がついたとされています。ビチェリンという言葉はピエモンテ方言で「小さなグラス」を意味します。トリノはオーストリアからの独立運動が最も盛んに行われた場所で、愛国者、文学者、芸術家が多く集まり、カフェの文化が栄えました。
ビチェリンは「bicerin ‘d Cavour (カヴールのビチェリン)」とも呼ばれています。イタリア統一の立役者であり、イタリア王国初代首相であったCouvour(カヴール)は、このカフェがお気に入りで、入り口を入ったすぐ左側、時計の下の大理石の丸テーブルで、新聞を片手にbicerinで身体を暖め鋭気を養っていたそうです。
このカフェを訪れた人々の中には、アレクサンドル・デュマ・ペール、フリードリヒ・ニーチェ、パブロ・ピカソ、アーネスト・ヘミングウェイ、ジャコモ・プッチーニ、イタロ・カルヴィーノなど多くの著名人がいて、このビチェリンという飲み物は彼らを虜にしました。
1896年2月1日にトリノのテアトロ・レージョで、プッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」が初演されましたが、この頃プッチーニは、このカフェのすぐ近くのアパートの屋根裏部屋に住んでいて、カフェに足繁く通い、この生活が「ラ・ボエーム」のモデルとなったと自身の思い出として語っています。
(2017年6月11日のブログより)

アカデミックな15分間

イタリアの大学には「quarto d'ora accademico:アカデミックな15分間」と呼ばれるものが存在しています。つまり大学の講義が、時間表に発表されているより15分間遅れて始まることを指しています。
というのは教授が教室から教室への移動するために、この習慣が自然に生まれたのだと言います。
そしてこのことに影響を受けて、大学でないところで行われる一般の講演会まで遅れて始まるのが習慣になってしまったとか。。。。。 
                  (2016年1月25日のブログより)

スカラ座の Punto Maria Callas

スカラ座の舞台上にPunto Maria Callas(マリア・カラス ポイント) と
呼ばれる≪舞台のセンターから少し上手寄りの前のスポット≫があります。
これはオケピット横の上手側最上階のpalco席にいたオナシスから最も良く
見える場所であったので、Callasはここに立って歌っていたのです。

今でもプリマドンナたちはこのスポットで歌いたがり、演出家たちも無言のうちに了承しています。
                (2011年7月20日のブログより)

アコーディオン(la fisarmonica)の父 

イタリア、アドリア海沿岸の城塞都市「カステルフィダルド:Castel-
fidardo」は、世界中のアコーディオン生産量の大半を占める街です。
その歴史は、1863年にイタリア、マルケ州のカステルフィダルドの貧しい農家ソプラーニ(Soprani)家が、一人のドイツ人の巡礼者を家に泊めたところから始まります。
このドイツ人は、感謝の気持ちを表すために、所持していた楽器(黎明期のアコーディオン)をソプラーニ家に置いていったのです。この家の青年パオロは、この楽器の構造に大変興味を持ち、分解したり組み立て直したりし、遂にはその構造を把握したのです。そして兄弟たちと共に家の地下室で、研究、改良してアコーディオンを製作し、街近隣のマーケットに売りに出したところ評判となったため、本格的にアコーディオンの製造を始めました。
パオロ・ソプラーニ社は街の中心に拠点を移し、従業員を増やしてゆき、1800年末頃には、息子のルイージとアキッレも加わって、400人の従業員を抱えるまでの規模になりました。そしてこの頃、カステルフィダルドにはパオロの兄弟たちによる社も含め、アコーディオン社が13社にもなり、パオロは、アコーディオンの生産を一大産業にまで発展させた「アコーディオンの父」となったのです。
1900年には、パオロ・ソプラーニ社はパリ万国博覧会に参加し、パオロはブリュッセルとパリの発明家アカデミーの名誉会員になりました。
                                (2015年9月16日のブログより)

Baci:バーチチョコレート

イタリアからのお土産の定番ともなっているバーチ・チョコレート。
イタリア中部ウンブリア州の州都ペルージャにあるPerugina社のヘーゼルナッツ(イタリア語ではnocciola)の入ったチョコレートのお話。
Perugina社(ペルジーナ社)は経営をFrancesco Buitoni(フランチェスコ・ブイトーニ)氏、お菓子の生産技術を女性実業家Luisa Spagnoli(ルイーザ・スパニョーリ)が担当し、1907年に創業されました。
“Baci”は1922年、Luisa Spagnoliが、チョコレート菓子を製造する際に余ったヘーゼルナッツを利用しようと考えたアイデアから生まれ、ヘーゼルナッツが入ったチョコレートはまるでゲンコツのような形をしていたため当初は “cazzotto (ゲンコツ)”と呼ばれていました。
この頃から経営に参加していたFrancesco の息子Giovanni Buitoni (ジョヴァンニ・ブイトーニ)は、Luisa より14歳年下でしたが、彼女と愛し合うようになり、このチョコレートに“Bacio (キス)”と言うロマンチックな名前を薦めたのです。そして、この名前になると“Baci”(bacio の複数形)は大変な勢いで有名になりました。
そこで、この社のアートディレクターFederico Seneca(フェデリコ・セネカ)が大きな二つの改革をしました。
チョコレート毎に、愛についてのフレーズがイタリア語・英語・フランス語などの言語で書かれている紙「cartiglio:カルティッリオ」を入れ、パッケージを青色にし、そこには星空の下のカップルを描いたのです。
こうして販売戦略も成功し、1950年代には
“Ovunque c’e amore c’e un Bacio Perugina:愛のあるところにはペルジーナのバーチョがある”という宣伝文句で、Baciチョコレートをプレゼントすることで、より効果的な愛情を表現できるように感じさせたのです。そしてこれを一回り小さくしたBacetti(小さなキス)チョコレートも生まれました。
Baciチョコレートは、一つ一つ青い星が散りばめられている銀色の包み紙に包まれ、ヘーゼルナッツが丸ごとひとつとジャンドゥーヤが入ったダークチョコレートです。
また中身はそのままでバニラ風味のホワイトチョコレートに包まれた“Baci bianco:バーチビアンコ”という種類もあり、この包み紙は青色で白い星が輝いています。
                                         (2015年6月2日のブログより)

Campanilismo カンパニリズモ:郷土愛

イタリア人は自分の生まれ育った土地を誇りにし、自分の街が一番だと信じています。そこで自己紹介するときには「Sono milanese. 僕はミラノ出身です。」「Sono romana. 私はローマ出身です。」と出身地を言うのが当たり前のようになっています。

イタリアで生活してみると、人々が、朝・夕と「Campanile カンパニーレ:鐘楼」から街中に響き渡る鐘の音に包まれながら生活し、鐘の音が一日の始まり、そして一日の終わりを告げ、このことからも街がひとつの共同体を作っているように感じられます。そして各々の街のCampanileが異なる音色を持つことから、生まれ育った街の鐘の音がイタリア人の愛郷精神や地方性を育んでいると考えられ、故郷を愛する心を「Amore di campanile(鐘への愛):愛郷心」と表現します。ここから「Campanilismoカンパニリズモ:郷土愛」という言葉が生まれました。

フィレンツェ歌劇場の音響デザイナーBaggio氏は、イタリア国内のみならずヨーロッパ各地を廻り、それぞれの街のCampanileの音を録音収集しています。彼は舞台で鐘の音が必要になると、その場面にピッタリな音を提供できる人物として、オペラ制作者の間では良く知られています。イタリア人にとってはCampanileの音はとても重要であり、
指揮者や各劇場からの難しい要望にも答える彼は、劇場関係者の間で厚い信頼を得ています。
                                   (2013年10月29日のブログより) 

Bel Paese:美しき国

Bel Paese(ベルパエーゼ)とは、イタリア語で「美しい国」という意味で、今日ではイタリアを指す表現として知られています。また同時にイタリア人であれば、クリームチーズ<Bel Paese>も頭に浮かびます。

この表現は、イタリアの偉大な二人の詩人ダンテとペトラルカがその作品の中で、イタリアの統一運動が始まる500年も前に、イタリア全体を指し示す言葉として使っています。

<ダンテ・アリギエーリ (1265~1321):神曲 地獄篇 第33歌> 
「si(はい)」の語音が響く美しき国.......
≪ del bel paese la dove 'l si suona, ≫
(Dante Alighieri, Inferno, Canto XXXIII)
ダンテは「俗語論」1-8で、肯定詞「然り」を、スペイン語は「oc」、
フランス語は「oil」、イタリア語は「si」という旨を述べている。

<フランチェスコ・ペトラルカ (1304~74):カンツォニエーレ 第146歌>
アペニン山脈が分かつ、海とアルプスに囲まれた美しき国.....
≪ il bel paese ch'Appennin parte e 'l mar circonda e l'Alpe ≫
(Francesco Petrarca, Canzoniere, CXLVI) 
1876年には、イタリアの学者・司祭アントニオ・ストッパーニ(Antonio Stoppani)が、イタリアの快適な自然の美しさを述べた本「Il Bel Paese」を出版してベストセラーとなり、その後、広くこの言葉が使われるようになりました。



  ("Bel Paese" descrivendo le bellezze naturali 
   dei paesaggi italiani insieme alle loro peculiarita.)⇒
また、1882年レッコ湖の近くのヴァル・サッシーナでチーズの生産を始めたEgidio Galbaniが、1906年になって、チーズと言えばフランスと考えられていた時代に、ストッパー二の本のタイトル「Bel Paese」を自社のチーズの名前にして売り出し大成功を収めました。今日、この「Galbani社」は、イタリア NO1のチーズブランドとして人気を得ています。
                                                            (2014年6月10日のブログより)

ルネッサンスの文豪ボッカッチョのゆかりの地「チェルタルド」

2011年5月20日、ルネッサンスの文豪ボッカッチョ(1313~75年)の家がある町、チェルタルド(Certaldo)を訪ねることができました。
ここはフィレンツェから56kmの所に位置し、人口1万6千人の町で、Certaldo bassa(下の町:新市街)と 丘の上のCertaldo alta(上の町:旧市街)とから成り、この旧市街にボッカッチョの家や古い建物があります。
駅を降りまっすぐ進むとFunicolareの乗り場があり、これに乗って数分で旧市街に到着。この町で制作をしている彫刻家の友人が迎えてくださったので、この町の話を聴きながらの長閑な散策となりました。数日前まではお天気がすぐれなかったとのことでしたが、我々が訪ねた日は快晴で初夏を思わせるお天気でした。緑豊かな木々の間を吹き抜ける風がなんと心地よかったことでしょう。この町は25年以上も前に日本の群馬県甘楽町(かんらまち)と姉妹都市になり、今なお盛んに交流が行われているそうです。
ボッカチョの家の二階、書斎であった部屋は、現在図書館になっていて、ボッカチョに関する研究資料、世界各国語に訳された「デカメロン」の本が並び、日本語の本もありました。
木造の階段を登り屋上に上ると、Certaldoの町が一望でき、遠くの丘に塔の町サン・ジミニァーノ(San Gimignano)が望めます。サン・ジミニァーノまでは10キロ程の距離で、時には自転車で出かけるという話に、私も試してみたい気持ちになりました。

その通りを少し進むと只今修復中のPalazzo Pretorioに突き当たり、その中庭にはHidetoshi Nagasawa氏による日本庭園と茶室があり、思いがけない文化交流に驚かされました。

この小さな町で7月の第3週目には、「Mercantia」という大道芸のお祭りが5日間行われ、世界各地から大道芸人たちが集まってきて、それはそれは賑やかなお祭で眠れぬ夜になるかもしれないとか。この静かな町がどんな騒ぎになるのかこの目で見たかったのですが....... 

Certaldo alta の澄み切った空気と弾けるような陽の光、町中がひとつの家族のような穏やかさ、
まるで時を越えて別世界に踏み込んだような旅でした。
Funicolare
Funicolareに乗らず
坂道を登ってCertaldo altaへ
中世の町
Palazzo Pretorio の中庭
Certaldo bassa

「リゴレット」の舞台になった町マントヴァ

劇場内に入ると、その想像しえない独特の美しさに一瞬息を呑んだ

2009年5月某日、ヴェルディのオペラ「リゴレット」の舞台となったマントヴァの駅に降り立つと、駅前の花壇には白と赤色のバラの花が咲き誇っていました、新緑の心地よい風に吹かれ通りを進んで行くと、そこにも至る所に美しいバラがのびのびと咲いていました。
一番の楽しみであったテアトロ・シェンティフィコに到着し、劇場内に入ると、その想像しえない独特の美しさに一瞬息を呑み、ここで240年もの間、人々が音楽を楽しみ交流を深めてきたことを思うと、この文化の豊かさが羨ましくもありました。
18世紀の最も美しい劇場と言われている Mantova のTeatro Scentifico (別名:Il Teatro Bibiena)は、建築家アントーニオ・ビビエーナ(1700~1774)が1769年に建設し、アッカデミア・フィラルモニカとしてオープンしました。

1770年1月にマントヴァに到着したモーツァルト父子が、この劇場でオペラを観たり、また演奏会を開いて大成功を収めたという記録が残っています。
モーツァルトの父レオポルドは妻への手紙に「これ以上美しい劇場は見たことがない」と書き送っています。
                   
                  (2009年5月22日のブログから)
テアトロシェンティフィコの客席(foto Yoh)
テアトロシェンティフィコの舞台(foto Yoh) 

音楽の町パルマ(エミリア・ロマーニャ州) 

ジュセッペ・ヴェルディは、1813年10月10日パルマ近郊の小さな村レ・ロンコレで生まれました。ここで宿屋と雑貨商を営んでいた父カルロは貧しかったので、教育のために息子を隣町ブッセートの靴屋に奉公に出し、ジュセッペは働きながらその町の学校へ通っていました。

この地で酒造業を営む資産家バレッツィは、ジュセッペ少年に興味を持ち、その才能に援助をしようと、彼を家族の一員として、この地での最良の教育を与えました。 ジュセッペは、このブッセートで音楽の基礎を学び、その後ミラノへ出て、次第に音楽家として認められるようになり、1836年23歳で、バレッツィ家の娘マルゲリータと結婚します。
またパルマは、19世紀後半から20世紀前半に活躍した指揮者アルトゥーロ・トスカニーニ(1867~1957年)の生まれた地でもあり、今年2007年は没後50年にあたるため、生家も修復され、様々な催し物がこの町で開催されています。

2007年4月の復活祭に、念願のブッセート訪問

私は今回やっと、ジュセッペ・ヴェルディを育んだブッセートの町へ足を伸ぼすことが出来ました。 
ブッセートの駅を降りると、真直ぐな広い並木道が現われ、こののどかな道を小鳥達の囀りを聞きながら、心地よい陽射しの下を風に吹かれて少し歩くと、ヴェルディ達が通っていたという居酒屋風サラミ屋「CIGNO DI BUSSETO」がありました。 どうしてもここを訪れたくて、何とかこの日の3時に予約を入れて貰っていたのです。看板には<SALSAMENTERIA STORICA>(歴史的なサラミ屋)とあります。覗いてみるとやはり満席、約束の3時までには少し時間があったので、近くのバールで、スプマンテを飲みながら待つことにしました。 
そして目指す「CIGNO DI BUSSETO」へ。このお店の常連には、ヴェルディはもちろんのこと、出版社のジュリオ・リコルディ、作曲家オットリーノ・レスピーギ、小説家で詩人のガブリエーレ・ダンヌンツィオ、詩人、作曲家で、台本も書いたアッリーゴ・ボイト、指揮者トスカニーニ、テノール歌手エンリーコ・カルーソ等々がいました。 
小さなお店の中には、ヴェルディの肖像画、この店を訪れた著名人達のサイン入りの写真、ブッセートで行われているヴェルディ声楽コンクールの入賞者達の写真等が、壁一杯にワインと共に所狭しと飾られていました。

←著名人達のサイン入りの写真、ヴェルディ声楽コンクールの入賞者達の写真等が飾られている。
今も店構えは、ヴェルディの通っていた当時と変わっていないとか。唯一つしかないメニューは、食べ方もその当時のまま。その名も「merenda(おやつ)」、パルマの名産である生ハムを中心としたサラミ類の薄切りが台に乗った紙の上に並べられて出てきます。
エミリア・ロマーニャ州のワイン、ランブルスコ(発泡性のワインでその名もヴェルディ)を白いお茶わんで飲みながら、生ハムやパルメザンチーズと共に・・・ サルサと名付けられているなすやトマトの煮たものもパンに載せていただくのです。 
デザートは昔ながらの木の器にクルミ等のナッツが山盛り、クルミ割り器?(木づちとまな枚)がセットでテーブルに出されます。自分でトントンと割りながらいただいていると、ついつい止められなくなって... 
しかし、どのテーブルにも殻の山が出来ていました!
この上ない幸せに満たされてここを後にし、次はこのお店の斜め前で、現在は修復され博物館になっているバレッツィ邸を見学しました。
ヴェルディの弾いていたピアノ、そしてバレッツィのお気に入りのひじ掛け椅子。そしてアルトゥ一口・トスカニーニーの愛用していた指揮棒の横には、リッカルド・ムーティが18年間愛用していたという指揮棒が並んでいました。 そして壁にはヴェルディのオペラ初演時の歌手達の写真や絵が順番に飾られていて、他では見ることの出来ないものも多いということで、過日のブッセートでの演奏後、ムーティは、これを見るために帰りの列車の時間を遅らせ、ぎりぎりまで一つ一つ眺めていたそうです。
トスカニーニーの愛用していた指揮棒の横には、
リッカルド・ムーティが18年間愛用していたと
いう指揮棒が並んでいました。
続いて、ここから少し行くと広場に出ます。そこには、テアトロ・ジュセッペ・ ヴェルディ(1868年落成)があります。
この日、劇場ではトスカニーニ没後50年の記念フイルムが上演されていました。小さくてもやはり馬蹄形の劇場です。床も古くでこぼこしていますが、町の人々は当時の劇場を大切に修復しながら、今もここでコンサートを楽しんでいます。

←テアトロ・ジュセッペ・ ヴェルディ
バレッツィ邸の前で
ヴェルディの弾いていた
ピアノ
バレッツィのお気に入りのひじ掛け椅子
ヴェルディの残した文化を誇りをもち大切にしている人々の生活が、町の至る所に感じられ、そのための余裕なのでしょうか、ほっと包まれる様な暖かさにあふれる町でした。 
ブッセートを出る頃は、真っ赤な夕日が駅の向こうに沈むところでした。